アフターテイスト、もしくはテイストの発生タイミングの操作

予告先発snut

茶だと製法

コーヒーだと異なる焙煎度でのブレンド

での試行錯誤もあるのだろうけれど、

気になるのは、ノートみたいな概念がありそうなとこかなあ。
アフターテイストだけではなく、飲み終わったあと。
この時差を起こすには、香りの原型としての濃度が必要。
それでいて香りを潰さないように精製する、とか?

エチオピアでノートがあれるのなら、当然、他のモカでもできそうだし、更には発生するフレーバーもモカフレーバーに限らず引き起こせる(モカフレーバー自体の拡張はまた別の話)かもしれないってのがブレンドの研究になるのかな。

農園側からすれば精製法以外も含めた製法での研究にはなるはず。
というか、たぶんナチュラルの意味が変わったって話は、これだ。
新しい木の特徴ってだけかもしれんけど、農園の開発力すごいな。
ダージリンにも負けない。

焙煎度ごとの香味の発生の仕方

番外編。この方法は、ほとんど無理というか、どうせ数があっても50もいかないのなら、全部列挙しろというか、発生する質感を挙げていったほうがいいのかもな。

ハイ・ミディアム・シティ
浅煎りらしいボディ感がある。シティのボディ感は、また少し違うのか???

フルシティのように充満はするが、効果の主体はスーっとする酸の揮発感かつ魅力はこの揮発と充満に煽られる別の香味。こういう二重の系統は、マスカテル様てあり、マスカテルにもよくあるタイプのコーヒーでの変奏版みたいな。

フルシティ
ダージリンのFFやウィスキィのように香りが充満する、これが売りかな?
ボディという点でシティとはどう異なるかは、pending.


フレンチ

ーーーー

面倒だからこっち。


タタマイラウの味だったはず。
飲み終わりに渋さがある感じなのかなぁ。

熱々の時はゲイシャに近いザラツキがあったのかも。
でもこれがふつうの浅煎りの舌触りなのかもなあ(と考えてたけど、これシティだよな?)

スーっと感もずっと強いし、この揮発にコホーッて香りが淡く広がる感じ。
香りというよりは、渋みに付随するタタの味がコホーの風で煽られて広がる感じ。
揮発に乗るとか背後にあるって感じではない。ここの二重感は後述。
*1
カップに残った跡には、蜜に属してそうな甘い香りが残ってる

レモングラスまでは行かないけど
なんかあったかもな
酸の香りが2つあったか、
分離してたって言えるかもしれんけど、
なんだろうなー

中盤は、ボディもあった
堀口の浅入りらしさのような
と言うよりは、もう少し強い感じの気もするけど、こんなもんがいつもの堀口の浅入りかもなあと思いつつ、これ、シティだったよな!?と思ったけど、やっぱりハイだった!


ーーー
タンザニア ブラックバーン フレンチ
クリーミーな苦味???
なんかズズズと走ってくるかんじ。
香りも何だろこれ
(オレンジ?と言われれば、オレンジは感じなかったけどそうなのかもしれないし、この感覚が説明されないのも変だよなあ
はつきしいって、モンデュールも以前に飲んだブラックバーンも覚えていないけど、こんな感覚で感じられるような香味はなかったし、他のコーヒーでさえこんなのなかった気すらしてくるぐらいに特異だと思う。タンザニアって少し飲みにくかったのかもな、この部分に関しては、なんとなく馴染がある気もする。)

フレンチって感じじゃないかもなあ
フレンチでも苦いほうだと思うが、リアンジャギのシティも結構苦いか。
(リアンジャギは出し殻でさえいつもイカレてるけど、シティのも甘かったな。)

カップに残った香りは、焦げ臭くもないようなふつうのフレンチって感じだったかも
(カップに残った香りもタイミング次第な部分もあるし)

ボディがどうのって説明は、うーん?たぶん、総体的な方の意味なんだろうけど、ここも難しいんだよなぁ。力強さってなんなんだろう、みたいな。

タンザニア屈指の優良農園から13-14クロップ入荷!
力強いコクにキャラメルのような甘い余韻

タンザニア屈指の優良農園「ブラックバーン」の13-14クロップが入荷しました。12-13クロップは天候不良のため生産量も少なく、例年より落ち着いた印象の香味でした。そのため短期間での販売でしたが、今年は生産量も増え、かつ良い出来のものが届きましたのでしっかりと販売していきたいと考えています。

ブラックバーン農園はフレンチローストにすることで、きれいな酸に厚みのあるコク、そしてキャラメルのような甘い余韻が心地よく持続する豊かな味わいに仕上がりました。深煎りにするとどっしりした味になりがちですが、クリーンな飲み口のため何杯でも飲みたくなること間違いなしです。

昔から多くのファンを抱えるブラックバーン農園ですが、ここ数年は皆様の期待に添う品質のものをご用意ことができませんでした。しかし今年はようやく自信をもっておすすめできる香味のレベルに戻りましたので、ぜひお試しください

タンザニア屈指の優良農園から13-14クロップが入荷!
明るい酸と力強いコクが織りなす絶妙なバランス感

タンザニア屈指の優良農園「ブラックバーン」の13-14クロップが入荷しました。12-13クロップは天候不良のため生産量も少なく、例年より落ち着いた印象の香味でした。そのため短期間での販売でしたが、今年は生産量も増え、かつ良い出来のものが届きましたのでしっかりと販売していきたいと考えています。

ブラックバーン農園の香味の特徴は何といってもオレンジのような明るい酸と力強いコクが織りなす絶妙なバランス感にあると思います。決して派手すぎず、かといって地味すぎたりもしない丁度よい味わいが癖になり、気付いたら何杯も飲んでしまっている、そんなコーヒーです。

昔から多くのファンを抱えるブラックバーン農園ですが、ここ数年は皆様の期待に添う品質のものをご用意ことができませんでした。しかし今年はようやく自信をもっておすすめできる香味のレベルに戻りましたので、ぜひお試しください

今朝のコーヒー
タンザニア ブラックバーン農園 シティ フレンチ
タンザニア最高峰レベルの農園だと思います。気象条件が厳しいため昨年は不作でしたが、今年は豊作となり多くを購入しました。
ケニアのような個性的な特徴はありませんが、バランスのとれた香味とでもいえばいいでしょうか。シティは軽やかな酸、フレンチはかすかにミルキーな印象。

ブラックバーンは、本当に質が良いのだと思う。こういう状態のは飲んだことがない。今はこれが一番と言う店員がいるのもおかしくはない。でもまあ、そういう感覚は素人とも一致してしまって、ビジャロボスが凄かったとかプロに言われても、ちょっとふーんって感じも否めないけど、実際すごいのだからどうしようもなくはある。

2重ってのは、モダンなマスカテルのコンセプト系にもトポロジカルに似てるのかもだし。また、同定不能なだけど何かあるってのも、単に複雑さとして説明するだけでは足りない、この系はコロンビアのウィラとかコスタリカとか。


関係ないけど、パパもモンデュールの話ししてたけど、ティピカならワタルだってサンアグスチンやミルキーマンデリンあるしなあ。マンデリンも、ミルキーやめてスマトラタイガーとか、あーそういう判断は正しいのだろうけど、なんだかな〜感。あとこの話になるとパカマラry


ペルーとボリビアもあるしな。個人的にはボリビアが楽しみかな。苦味がどう変わるのか。チャンチャマイヨとかは興味ないから新規枠。

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東ティモールも色々と違うようだから、あれだけど、ハイでこんな強い(?)ボディになるんだな。飲んでて、「浅煎りだったはずだけどシティはこういうボディになるのだろうか」と考えてたぐらいに、浅煎りのボディ感以上な感じもあって、なんか二重の感じ。

酸に特徴的な香味が出るはずだと思ってんだけど、やっぱなんかある。
レモングラスの香りを酸味に落とすとこういう味になる」と言うよりは、
「何らかの香味をコーヒーに落とせたうえで、香味が分離し二重になってる」って気がする。たぶん、時限的なノートなのかアロマなのか、それらにもフレーバーが感じられるってかんじ?

上記の酸味(と言ってしまうけど)以外のポイントは、香味の煽られ方というか、香りが充満するといえるほどのフルシティ的な「強さ」はないけど、スーっとする酸の揮発に伴う充満感がまずある。

これは、フルシティ的な充満感(香り自体が充満しているかのようであれる)まではいかない。代わりに、渋みに付随する香味があるようで、これが充満感という乗り物に載せられて運搬されてる感じ。

もっと高いのにあるような不分離感のある味覚ではない(たとえば、甘みの奥にどういうわけか明らかに苦味があり、その苦味が甘みに旨みが―修辞としてではなく成分として―織り込まれているかのような、とか)。綺麗に役割分担してて、そういう意味では、きっかり価格どおりの限界がある様子。*2

もちろん、ここでの違いも、現象から見れば「フルシティでも酸の揮発感が残る」ような品質に、「深い焙煎での『ボディ(俺が使う意味より、もっと総体的な定義になるはず)』」が合わさっているだけなのかもしれないけど、そこの分解をするには能力不足。



あとは、喉で感じる部分もあるはずなので、どうするか。

*1:つまり、喉での知覚が目立っていたのだろう。今回のこのパターンはちょっと変則なので、体調の影響があった鴨しれない。だいたい、無自覚な体調の調子は、明らかに体調が悪い時に先駆けて一週間前くらいから影響しうる感じ。味そのものとしては苦味と渋みに増幅がかかる程度しか、体調関係では感じられたことがない。今回の知覚の場所がズレたので、これも、体調関係では?ってだけ。

*2:苦味と甘味のバランスがーみたいな、なんにも語れていない語り方は嫌い。本当に感じられているのなら、もっとまともな書き方ができるはずだから。詳細でなくても、個人のコーヒー観が見えるような書き方になるはずだから。で、往々にして飲んでるコーヒーの価格が不明で指示先が同定できない。他人に伝える気がない。伝えられなくても黙ってこれ飲め、ともならない。そういうのは、どうでもいい。

竹田青嗣 エロス 蕩尽 プラトニズム 権利問題

ニーチェ永劫回帰って、要は、って話になる予定は未定で確定にあらずんばべし

そのうち

ヨハネス、アンセルムス、パルメニデスデカルトハイデガーあたりなのかなぁ。カントやポパーの方が

それはともかく、ギリシャの系譜を参照せずとも、ニーチェの話は論理的に理解できはするんだろうけど、問題のフレームワークがそれでは分からんよなぁ、ってことで権利論であり。理性から自我へズレた時に、基本的には過去形となるような想起はボツになるし、観想というような観劇を経た結晶化も無理になっちまうから、デュオニソスが問題になるのか?メモ

あとは道徳と自由のあれか。
そう考えれば、リバタリアンパターナリズムとかもプラトン系の道徳志向か。

カントが「幸福」なんてのを定言命法に絡める理由もこのへんなんだろうなぁ。

永劫回帰が未来への権利・想起を想定してるってわけでもないだろうし。延長を想定しないということはって話のような気もするし。

ミシュス、沼野充義、村上春樹、あるいは戯言遣い

あとでー

改定されてる方。文庫のは改定後だったっけか???

吉行淳之介「水の畔り」
小島信夫「馬」
安岡章太郎「ガラスの靴」
庄野潤三静物
チェーホフ「中二階のある家」
村上春樹中国行きのスロウ・ボート

あたりが関連かなー。あとまぁ、西尾維新もおまけで。


ただ、なんだろうなぁ。横光利一のようなメタではなく、ややゲーム理論行動経済学のようなメタ突破な向きはあるけど、それとも少し違うメタというか。うーん。

樹影譚 村上春樹 回転木馬のデッド・ヒート 森博嗣 吉行淳之介

元ネタは、村上春樹『若い読者のための短編小説案内』。丸谷才一の回まで読んでの段階。

ネタバレ対象は丸谷才一『樹影譚』、村上春樹回転木馬のデッド・ヒート』、森博嗣すべてがFになる』、吉行淳之介砂の上の植物群』。比較的軽く済むののとして、回転木馬は序盤だけ、砂の上の植物群は序盤というか登場人物が揃ってくる辺りまで読んでるって前提。Fは物語のネタバレになってしまう。

そのうち書き足す

中断したりしながら、一月ほど掛かった模様。
関係ないがこれさ―

「ミロ、ヘッセ、リルケ、渋沢竜彦、武満徹谷川俊太郎などがオマージュを寄せる画文集。」
という触れ込みなんだけど、そこは片山敏彦、吉行淳之介、ヘッセ、リルケ谷川俊太郎に見せかけて阿川佐和子も入れとこう的な。

チェーホフ短篇集

読んだのは上のソフトカバー。沼野充義訳。

ナジェージュダさん、ナージャ、ナッちゃんの指小形三段活用はちゃんと訳し分けられてるよ。要はナージェンカがナッちゃんになってる。なかなかの一語一句厳密翻訳厨でカラマーゾフ原卓也一択厨[※読み比べてすらいない]から見ても、「ナッちゃん」で構わない気がしたけどな。作品が成せる技か、短編特有の傾向かは知らんけど。

この沼野訳は、長い解説も売りかもな。でも、「いたずら」の解説には、ツルゲーネフの『初恋』ネタバレがある。『山椒魚』も見かけたら段落ごと読み飛ばせばいいんじゃないか。

こっちの松下裕訳にも先のソフトカバー本では触れられていたが、この文庫本が出てから1年ぐらいで出たんだな。

ツルゲーネフの『初恋』を読んでるという前提の上でネタバレ


















修正版以前は、「初恋の話をしても自分の奥さんの話にしかならないよ―」といってた人の視点だったんじゃないかな、と少し思った。

そのうちk

コロンビアのコーヒーとティピカの香味

・・・編集中・・・

個人的にウィラは凄かった。今年もそういうのが買えるのか不安だったのだけど、そうでもないのかな。コロンビアという産地をCOEから見た時、どうも外国の大手ロースターが落札したがっているように見えた。といっても、落札率や落札履歴を産地ごとで厳密に比べたわけじゃない*1ので、印象論ですらない。それでも、他の産地は他国(というか日本の丸山だけど)に渡しても、コロンビアだけは、良い物を必ず確保するみたいな熱の入れ方に思えた。(これは今からでも過去の落札履歴を見えばいいと思う。)

では、仮にそうだったとして、その情熱の源は何だったのだろうか?

当初は、向こうではコロンビアが人気なんだろうと思ってた。日本におけるキリマンみたいなポジションなのかな、と。しかし、これだけ幅広くあれる産地なら、やっぱり他に「何か」があるのではないか?たとえば、シルキーさ。プロはこの質感に非常に敏感で鋭敏で執着があるように見える。要はマンデリンなどの出来の良さを強調してるだけかと思ってた。けど、別の文脈もありそう。もしくは何らかの原体験のようなもの。

他にも、ブラジルかコロンビアか忘れたけど、ゲイシャ特有の舌触りに近いものがあった。ゲイシャでもブルマンでも、舌触りは特定の単語で形容できる。でもプロはそこで形容されている以上のものを感じてるはず。そう思えてきた。ただ、そういう部分って、店の公式見解としては出てこないくせに、どうも素人同士でも意見は一致するしプロも実はそう思ってるってのがあるっぽい。

グアテマラのカツーラも、まだ飲めてない。これはいつも買えるはずだから急いでない。カツーラはブルボンより劣るのか、その感覚は特に掴めたと思えてはいないが、固有の臭さがあっても別に誰も気にしないだろうな。おかげで安く買えるってのもある。結果だけ見れば同じ農園での違いも色々と楽しめるのだし。そもそも良し悪しぐらい説明の雰囲気から見抜けよってだけ。

ティピカの橋を渡り、ケニアに話は飛ぶ。おそらく、11-12のロットと比較した時、何か足りてないものがあるのだろう。この判断にどんな基準がいくつ使われているかは知らないが、店のラインナップとは符合する。

品種や産地以外の残り話としては、エチオピアを深煎りにする意図もまだよくわからない。味覚から分かること以外の価値が入り込んでいるとしか思えてない。ここも、コスタリカで確かめられそうだったけど、機を逃しちゃった。

たぶん、「シルキーさがこの焙煎の深さでこれだけのバランス云々……」というような説明はカッピングからもコーヒーの歴史的文脈からも可能なのだろうけど、実際に飲んでみれば済むだけ。そういう簡単な話にしかできないと思う。

ここらも、分からんことが多い。ワインだと「日本向け」みたいな作られ方があって、これがちゃんと美味しくてさぁ、どういう理屈だよと不思議なことになってる。そういうことならコーヒーにもそういうのがあるんじゃないの?となる。

そういう業界跨ぎで考えると、「深煎り自体の美味さ」は、清酒で言う「旨味」*2って形容に近いのかもしれない。でもこの感覚はフレンチからイタリアンの間での感覚に思え、フルシティからフレンチの間にはまた別に何かありそう。

なんでそんな細分化されるかというと、エチオピアを深煎りにする良さがよく分からんから。現状では、味覚以外の価値が何か入り込んでるとしか思えない。悪く言えば地味になる。良く言えばバランスが良くなるといえるんだろか?歴史的な文脈で言えば、「深煎りでもこれだけ香りが残るのが凄い」とも言えるんだろう。この説明は、圧倒的に正しいであろうゆえに酷く嘘っぽいのだけどね。この辺のプロの感覚は、まだよくわからない。あ、もちろん美味しい。

また、直感的とまでには至れてはいないけど、プロから見た何らかの価値に付随して引き起こされてそうな雰囲気のある味覚の知覚のされ方が2つある。喉に絡みつくか、または苦味が染みこんでくるかのような…似た状態としては、高塩分濃度で熟成させた白干し梅の塩味を苦味に置換したかのような……このあたりが怪しい。

しかも後者は、苦味としてだけでなく香味や甘味としてまで、同様の挙動を起こせるのだと思う。ここがどう読んでも意味が通じそうもない説明になってんだけど、分類としては風味ってことで良いのだと思う。ただの風味で終われないのは、味覚として知覚される順番というか知覚の持続性、もしくは知覚される過程が特徴的だから。香味や甘味が舌に染み込んでくるかのような印象になる。甘味ぐらいなら檸檬の酸っぱさみたいなものの変形だからまだ良いのだけど、香味ってのが不思議な感覚。しかも味覚の主体は苦味ではないのに、でもこれって…背景にある苦味がこの「染み込み方」の原動力になってないか?みたいな感覚に陥る。

これが深煎りにおけるイタリアン寄りの苦味の美味さ、その極値の1つだと思ってる。ただ、元々の「苦味の染み込み方」自体が、グラニュー糖のような甘味の影響を、香味や甘味が受けるような形と相似形で受けてるような気もするので、絡まったことになってそうでもある。またこうなったらなったで、これって、所謂「コーヒーの甘味(400円未満のコーヒーに顕著)」の延長なのか?などの疑問も出る。ホイールは覚えてないけど甘味も細分化されてんのかな?

フレンチ寄りの方の極値は、まだ分からない。フルシティとの境界線に何かある…のか?こっちは勘すら働き用もないくらいに全く分からない空白地帯。在りはするはず。そもそも苦味系の美味しさになるのかも不明。モカが担当できてる領域っぽい。最も単純なオチとしては、焙煎の深さと香りの量の併存という歴史的な価値で終わるかも。それでもいいと思うけど、それは退屈な話だなぁと思う。この境界近辺の理解が全く及んでいないので、最難関領域の疑いがある。


これら全てが、「ティピカらしさ」から考えられ、なおかつ、その「らしさ」はスペシャルティらしい派手派手しさとは異なるような、「スペシャルティ以前の高品質なコーヒー」の系譜であるのではないだろうか?

*1:以前はそういうデータがサイトで確認できた

*2:(純米)吟醸酒というよりは、コク系の大吟醸系だと思う。カタログに載ってない5000円ぐらいのかなぁ。普段の3000円の大吟醸と比べると愕然とするような差が出るような酒蔵もある模様な意味で旨味。熱燗の美味しさみたいなのでもいいような気もするんだけど、ちょっと違う気もしてる。

小島信夫『馬』/村上春樹/カフカ『変身』/保坂和志

カフカはどのバージョンでの翻訳なのかってのが問題になるようなんだけど、今回のは丘沢静也の新訳。

現物読んでないしどうもあれっぽさそうな経由だけど、相応の技術で刈り込めばそうなるしかないような機械的粗筋を素晴らしいと褒める以前にか以後にか、「カフカのような」「カフカ的」「思考実験」と言えなかった時点で……。でもオマージュではないんだろうか?建て増した末の偶然の結果論なだけ?

多くの人が誤解していることなのだが、寓話とか比喩というものは、イメージを豊かにしたり拡散させたりするのではなくて、語りを目的に向かって絞り込む。イソップ童話はどれも寓話だが、たとえば『アリとキリギリス』という話で、アリのイメージもキリギリスのイメージも豊かにならず、同時に、働き者と怠け者のイメージも豊かにならず、四者のイメージが硬直化する。語りが目的に向かって進んでいくためにそういうことになる。

この意味でもカフカは寓話ではない。人間ならざるものが人間のように振る舞ったり、ありえない土地に行ったりする作品の外見は確かに「寓話的」ではあるけれど、目的に向かって物事が簡略化されるわけではないので寓話ではない。
だいたいカフカの小説には目的(意図)や目的地(こう終わらせようという形)はない。日常生活の中に異物が入ってきたらどうなるのか?ということを、一種の思考実験のように書いていると考えた方がいいと私は思う。科学の思考実験は、夾雑物を排した純粋状態を意味するが、カフカの場合には、みんなが身振り手振りの癖、語りの癖、思考の癖を持っているために夾雑物で溢れている。……とは言え、カフカの小説は、どういう風と分類される小説でなく、ひたすらカフカの小説なのだが。
日本で書かれたカフカのような小説と言うと、私は真っ先に、小島信夫の初期の『馬』を思い出す。

……(中略)……

そういう小説を「カフカのような小説」としか言えないのだが、『馬』や『小銃』は本当は「カフカ小説」と呼びたいくらい、本質的にカフカだ。

それに対して、ふつうに「カフカ的」と呼ばれているものは、カフカとは関係ない。迷宮が出てきたり、変身したり、得体のしれない権力が出てきたり、何かに翻弄されたり、それらはカフカの表面をなぞっているだけで、カフカが作り出した小説の力学とは関係ない。
小説をめぐって15

たとえば、村上の粗筋の書き方の何が凄いかと考えてみれば、「言いくるめられて」という単語が出てくるのが先ず凄いと思う。他方で違和感があるのは、「理屈に弱い」という単語で説明してしまう部分。問題は、この違和感、違和を覚えることが既に間違ってるというか、別の観点や整合性や構成などの対比(テーマなども含めてもいいのかもしれない)を考えて、更には作品感の流れや繋がりから考えれば、どう考えても単独の作品から読み取れるはずのない、それでいて綜合的には圧倒的に正しい読解くさいのが凄いとこか。

カフカに関して言えば、不条理さそのものはどうでもいい気がするんだよな。

この作品を村上は様々な視点から解釈し、これは基本的には失われた愛を取り戻すプロセスを描いたのだと結論めいたことをいっていたが、筆者は、これは前の二作との関連で、やはり、日常性の中にぽかっとあいた非日常性をめぐる物語ではないかと解釈したくなる。その非日常性は、前の作品ではあくまでも日常性との連続においてあったが、この作品では日常性と非日常性とは断絶している。ここに展開されているのはある意味、カフカ的な不条理の世界に近い。
小島信夫の短編小説

断絶ってのが把握できないから、何を言わんとしてるのか少し難しいけど、「断絶」ってのが、村上春樹がいうところの「万里の長城」とどう違うのか、そこが知りたかったかな。

個人的にカフカらしさってのは、「思考実験」ってのがしっくりくる。特に、その思考のパターンというか変遷が、思考に耐える形式を持ってる、とでも言えばよいのだろうか。有り体に言えば、メタメタしまくるロジカルシンキングとでも言えそうな。もちろん、そんな実験を示すために、どうして異物が投入されなければならなかったのかはわからないんだけど。

たとえば、兄と妹の最後の思考の往復。そして主人とダンナの最後の思考の往復。これってけっこう鏡像になってないかなとも思う。この違いはなんだろう。カフカには兄弟が居て、小島は一人っ子なんだじゃないか?とでも思えちゃいそうな差とでも言うのか。

横光利一の『機械』のメタな思考とか。自省の聞いたフェアなメタとでも言うかなぁ。他方で谷川流の思考は淀みなく流れるけど、メタではあっても(方法的)懐疑ではないとでも言うんだろうか。そのへん、小島の思考は大変に回転が速い印象もある。まぁ変な話だからそう見えるだけかもしれんが。

そのうちかきたす

書き足し1:
保坂はカフカ小説とまで言っているが、村上は反カフカ的(自我を不鮮明にすることで自己を防御しようとしているようにさえ思えてくる*1)と言っている。どちらが正しいか。村上は、虫になった時に僕がどう行動するかを予想し、また犬のエピソードも論拠に挙げる。他方で、保坂は力学と言う。個人的には、保坂の力学の方が良いのではないかと思うが、力学という捉え方をした時点でスコープが自ずと広がってしまい、その構造化自体が持つ説明の広さゆえに自動的に村上の解釈よりも有利になってしまっているという部分が否応にもありそうではある。

ただ、村上のego-selfからの見方を端に置いといても、犬のエピソードで繰り広げられている応答ゲームは、変身のラストで主人公と妹の会話なき会話の互いの思いを互いに先取して、でもそれを言ってしまったらデッドロックで、言われてしまった方には逃げ道がない、だけどそれがおそらくは唯一の正解でしかない、だから言わなければならない、言ってもらうべきでもある、ああでも、そんなこと……。という不条理さ。もちろん、「僕」は彼とは違って死に瀕しているわけではない。でもだからこそ尚更に悲惨なのかもしれない。にも関わらずに大したことないからこそ真に悲惨なのかもしれない。でもそんなの、やっぱり生きているんだから死ぬよりは遥かにマシでしかないよなとも。


保坂がどうしてカフカを挙げ、村上がどうしてカフカを挙げ、僕がどうしてカフカを挙げたのか。これは互いに互いの文章を読んでいたのかもしれない。少なくとも僕は書いている時点で海辺のカフカは未読だし、村上が『馬』について語っている箇所も半分までしか読んでおらず、その時点では「反カフカ」は言及されては居ない。



そのうちまたかきたす


安岡章太郎「ガラスの靴」は、何を巧いと思ったんだっけなぁ。何かの対比の使い方だった気がする。村上も「巧妙」と入ってるが、支持先が違うよなぁ。それとは別に、村上のほうがもう一手先まで読まれたっぽくはある。たとえば、最後のシーンの、相手の意向に沿えば今度は相手が離れていってしまう逆転現象とか。いや、村上はこれのことを言ってるのか?

このへんから、私小説云々が見え始めてきて、

庄野潤三静物」になると、ドンガラ。

中折帽子まで話が進むと、もうほとんどエーコの講義と同内容だよなぁ。もう少し前から、この方向は少しずつ言われ始めてたけど。


そのう

*1:しているとさえ ではないな(typo修正)