小島信夫『馬』/村上春樹/カフカ『変身』/保坂和志

カフカはどのバージョンでの翻訳なのかってのが問題になるようなんだけど、今回のは丘沢静也の新訳。

現物読んでないしどうもあれっぽさそうな経由だけど、相応の技術で刈り込めばそうなるしかないような機械的粗筋を素晴らしいと褒める以前にか以後にか、「カフカのような」「カフカ的」「思考実験」と言えなかった時点で……。でもオマージュではないんだろうか?建て増した末の偶然の結果論なだけ?

多くの人が誤解していることなのだが、寓話とか比喩というものは、イメージを豊かにしたり拡散させたりするのではなくて、語りを目的に向かって絞り込む。イソップ童話はどれも寓話だが、たとえば『アリとキリギリス』という話で、アリのイメージもキリギリスのイメージも豊かにならず、同時に、働き者と怠け者のイメージも豊かにならず、四者のイメージが硬直化する。語りが目的に向かって進んでいくためにそういうことになる。

この意味でもカフカは寓話ではない。人間ならざるものが人間のように振る舞ったり、ありえない土地に行ったりする作品の外見は確かに「寓話的」ではあるけれど、目的に向かって物事が簡略化されるわけではないので寓話ではない。
だいたいカフカの小説には目的(意図)や目的地(こう終わらせようという形)はない。日常生活の中に異物が入ってきたらどうなるのか?ということを、一種の思考実験のように書いていると考えた方がいいと私は思う。科学の思考実験は、夾雑物を排した純粋状態を意味するが、カフカの場合には、みんなが身振り手振りの癖、語りの癖、思考の癖を持っているために夾雑物で溢れている。……とは言え、カフカの小説は、どういう風と分類される小説でなく、ひたすらカフカの小説なのだが。
日本で書かれたカフカのような小説と言うと、私は真っ先に、小島信夫の初期の『馬』を思い出す。

……(中略)……

そういう小説を「カフカのような小説」としか言えないのだが、『馬』や『小銃』は本当は「カフカ小説」と呼びたいくらい、本質的にカフカだ。

それに対して、ふつうに「カフカ的」と呼ばれているものは、カフカとは関係ない。迷宮が出てきたり、変身したり、得体のしれない権力が出てきたり、何かに翻弄されたり、それらはカフカの表面をなぞっているだけで、カフカが作り出した小説の力学とは関係ない。
小説をめぐって15

たとえば、村上の粗筋の書き方の何が凄いかと考えてみれば、「言いくるめられて」という単語が出てくるのが先ず凄いと思う。他方で違和感があるのは、「理屈に弱い」という単語で説明してしまう部分。問題は、この違和感、違和を覚えることが既に間違ってるというか、別の観点や整合性や構成などの対比(テーマなども含めてもいいのかもしれない)を考えて、更には作品感の流れや繋がりから考えれば、どう考えても単独の作品から読み取れるはずのない、それでいて綜合的には圧倒的に正しい読解くさいのが凄いとこか。

カフカに関して言えば、不条理さそのものはどうでもいい気がするんだよな。

この作品を村上は様々な視点から解釈し、これは基本的には失われた愛を取り戻すプロセスを描いたのだと結論めいたことをいっていたが、筆者は、これは前の二作との関連で、やはり、日常性の中にぽかっとあいた非日常性をめぐる物語ではないかと解釈したくなる。その非日常性は、前の作品ではあくまでも日常性との連続においてあったが、この作品では日常性と非日常性とは断絶している。ここに展開されているのはある意味、カフカ的な不条理の世界に近い。
小島信夫の短編小説

断絶ってのが把握できないから、何を言わんとしてるのか少し難しいけど、「断絶」ってのが、村上春樹がいうところの「万里の長城」とどう違うのか、そこが知りたかったかな。

個人的にカフカらしさってのは、「思考実験」ってのがしっくりくる。特に、その思考のパターンというか変遷が、思考に耐える形式を持ってる、とでも言えばよいのだろうか。有り体に言えば、メタメタしまくるロジカルシンキングとでも言えそうな。もちろん、そんな実験を示すために、どうして異物が投入されなければならなかったのかはわからないんだけど。

たとえば、兄と妹の最後の思考の往復。そして主人とダンナの最後の思考の往復。これってけっこう鏡像になってないかなとも思う。この違いはなんだろう。カフカには兄弟が居て、小島は一人っ子なんだじゃないか?とでも思えちゃいそうな差とでも言うのか。

横光利一の『機械』のメタな思考とか。自省の聞いたフェアなメタとでも言うかなぁ。他方で谷川流の思考は淀みなく流れるけど、メタではあっても(方法的)懐疑ではないとでも言うんだろうか。そのへん、小島の思考は大変に回転が速い印象もある。まぁ変な話だからそう見えるだけかもしれんが。

そのうちかきたす

書き足し1:
保坂はカフカ小説とまで言っているが、村上は反カフカ的(自我を不鮮明にすることで自己を防御しようとしているようにさえ思えてくる*1)と言っている。どちらが正しいか。村上は、虫になった時に僕がどう行動するかを予想し、また犬のエピソードも論拠に挙げる。他方で、保坂は力学と言う。個人的には、保坂の力学の方が良いのではないかと思うが、力学という捉え方をした時点でスコープが自ずと広がってしまい、その構造化自体が持つ説明の広さゆえに自動的に村上の解釈よりも有利になってしまっているという部分が否応にもありそうではある。

ただ、村上のego-selfからの見方を端に置いといても、犬のエピソードで繰り広げられている応答ゲームは、変身のラストで主人公と妹の会話なき会話の互いの思いを互いに先取して、でもそれを言ってしまったらデッドロックで、言われてしまった方には逃げ道がない、だけどそれがおそらくは唯一の正解でしかない、だから言わなければならない、言ってもらうべきでもある、ああでも、そんなこと……。という不条理さ。もちろん、「僕」は彼とは違って死に瀕しているわけではない。でもだからこそ尚更に悲惨なのかもしれない。にも関わらずに大したことないからこそ真に悲惨なのかもしれない。でもそんなの、やっぱり生きているんだから死ぬよりは遥かにマシでしかないよなとも。


保坂がどうしてカフカを挙げ、村上がどうしてカフカを挙げ、僕がどうしてカフカを挙げたのか。これは互いに互いの文章を読んでいたのかもしれない。少なくとも僕は書いている時点で海辺のカフカは未読だし、村上が『馬』について語っている箇所も半分までしか読んでおらず、その時点では「反カフカ」は言及されては居ない。



そのうちまたかきたす


安岡章太郎「ガラスの靴」は、何を巧いと思ったんだっけなぁ。何かの対比の使い方だった気がする。村上も「巧妙」と入ってるが、支持先が違うよなぁ。それとは別に、村上のほうがもう一手先まで読まれたっぽくはある。たとえば、最後のシーンの、相手の意向に沿えば今度は相手が離れていってしまう逆転現象とか。いや、村上はこれのことを言ってるのか?

このへんから、私小説云々が見え始めてきて、

庄野潤三静物」になると、ドンガラ。

中折帽子まで話が進むと、もうほとんどエーコの講義と同内容だよなぁ。もう少し前から、この方向は少しずつ言われ始めてたけど。


そのう

*1:しているとさえ ではないな(typo修正)