「魔性の龍を殺す」

嘘らしく現れる真とは即ち嘘であり、真らしく表現された嘘とは即ち真である。

予め分かってはいないのだから、表現されたものしかない、龍はいない。前段は偽ではなく嘘、後段は嘘か真かの真偽。と言ってもいいのかもしれない。もちろん後段で表現される内容自体が、誰かから観測されそうであるもとのして評価されてしまう―そんな殺し損ねた龍の話―をしているわけでもないんだろうとも思う。


ここは基本、飲み物の話ってことで、主観的なものである味覚体験は伝達不能だと臆断する毎度の被害者気取りの阿呆とか。往々にして、事実確認には手抜きばっかで結論先取のくせに理屈付けまで杜撰。大二病的な主観客観厨ですらあれてない。そもそもの臆断自体がトートロジーなのだから当たり前か。*1

主観的な表現そのものは十分に伝達力を持つ、間主観だ価値自由だ言わずとも、伝わったものが各々で実は異なっていたとしても*2。異なっていたところで異なれるバリエーションなんてたかがしれているという話でもあろうし*3。異なっていようが先ずは話を進める上で問題がなければ、終わってみればその差異は些細なもので、いや甚大なものであったとしても、もう問題にならないような話になっているかもしれない。

なんというか。対話の行き着く先のイメージがないんだろうか。書いていたら気がついた。互いに話していたら気がついた。そういうことは普通にあるはずなんだけどな。愚者のエンドロールか。

*1:ってかどう見てもルサンチマン。しかもその不合理に従ったとこで得られる実利すらない始末。挙句に具体的な対象が存在してない。徹底されたルサンチマンがいかに手当たり次第なのか、その可能性を体現してる。その上に一緒に語らえれる内容がやたらに時事的でしかもそれさえもいつの話だよだったり、意味もなく古いジャーゴンだったり。これがどういうことか、勘弁してほしい。

*2:まぁこういう話になった時点で、「姿は似せがたく、意は似せやすし」とは話がもう異なっているんだろう。

*3:ここも往々にどうでもいいような定義論争にする奴がいて辟易する。定義が両者でズレているのならそのズレた2つの場合の両方で適当に話を同時進行させればいいだけなのに。何も100も200もパターンがあるわけでもないのにさ。