一抹の違和:自分の舌と合理化

往々にして、飲んだ瞬間に得られる違和は正しい。何も自分の感覚が優れているからではなく―それは極めてオーソドックスでしかありえないはず―つまりは誰にでも分かってしまう違和程度でも十二分に正しくあれてしまう。こういう体験は、常識的な範疇でしかないんだけど、妙に五月蝿い奴は、おそらくは自分の感覚その他を交換可能な程度のものとしてもある程度は扱えるはずだとは考えていないんだろう。

たとえば「AとBとでどちらが良いか」という話になった時、常識程度には敏い煩方は巧妙に論理の穴を付いてくる――つまりは、一般論から外れる例外が存在している、と突いてくる。要は、たしかにAとBではAの方が優れてはいるだろうが、優れたBも存在している、もちろんそれ以上に特に優れたAが至上であるのは云々……、と。で、あんた何段後退する気なんですか。もちろん事実の指摘としての価値はその言説にはあるだろうけど、それって「詳しい俺」が敢えて殊更に言うべきことなのか?その発言によって何か新しい情報が追加されたんだろうか。むしろ誰にでも―その分野について完全に無知な素人でも―同様のことが出任せでも言えてしまうことについては何も思わないんだろうか。結局は、あんたより俺の方が詳しいし分かってると言ってるだけなんじゃないか。

俺の方が詳しいと思っているのなら、より詳しく話を修正すればいいだけなのに。論理上の可能性や一般論なんか誰にでも想定できるのだから、ではその想定は正当なのか。より正確な知識を基により妥当な推論はないのか。その素人然とした着想を洗練させた別の方法が俺には分かる。――という話にもならない。その話は尤もだが、事実上、それは偽問題であり実は全く問題にはならないんだ、というある程度知っていれば誰もが知っている話題の提示にもならない。これらのような閉じた志向性は馬鹿馬鹿しいと思う。知識なんてなくたって美味しいものを美味しいと言ってもらいたい。美味しいはずなのに美味しいと思えなかったら何かが間違っているのではないかと指摘すればいい。そしてそれでも不味かったら、それでいい。

そりゃ嗜好品は金がかかる。金を出した奴が一番詳しい。じゃあ自分はいくら出したか。そこで差が出る。必然、自分より詳しい人間が、売る側だけでなく買う側にすらいる。そんなの当たり前なのに。本当に優劣を決めたいのなら、店単位でも商品単位でも農園単位でも区画単位でも賞単位でも国単位でもステーション単位でも、何だっていいのに、絶対にそれは言わない。具体的には言わない。具体的に言ってみた時に何が出るかと皆にある程度予想されてしまっていても、それを覆してやろうと気炎を上げ言ってみる、なんとことは、まずない。*1

別にそれはそれでいい。論理を盾にしようが、他にもメタった時点で無敵になってしまうことに明らかに寄りかかって知的な懐疑派気取りの爺でもなんでもいい、その懐疑自体は至極真っ当なスタンスでしかないし、だからこそだろ。その動機がくだらなくても、なんでもいい。

にも関わらず、その話に乗る人も少ない。そっちは更に馬鹿馬鹿しい。ルサンチマン阿呆がいて、ちょっとは世間並みに賢いだけの別の馬鹿がいて、深刻すぎて興が冷めるような残酷が別に湧き始め、困惑してる自認良識派には公正さの欠片もない、そんなとこに人が集まるわけない。楽しさを分ち合おうとも、嗜好品業界の知的構築物に挑もうとも、成果物として話を磨き上げようともしていないのだから。*2

そしてその懐疑、時系列に未確定が残るにせよ、事実問題として解答が既に示唆されてる。これは1年ぐらいで気づける。それを指摘する奴もいなかった。懐疑してる本人すらも、その後になっても気づけてない。つまりは懐疑できてしまってるだけで、正規ルートで思考しているわけではないのだろうから当たり前でしかないとも言えよう。そもそもほんとうに気にしてたんだろうか。*3

自分の舌が特別に秀でていると思える根拠を見出したことはないけれど、その精度に差があり実質的な意味も全く異なるかもしれないし最後の最後で方向性の先に見えた二択で選ぶものが違うかもしれないけれど、それでも自分と同じような結論に至るような人と自分には思えるような人の知見は、おそらくは圧倒的に正しい。と理解できたのは収穫かな。

むしろ本来は、これくらい常識的な前提としておけよという程度のものでしかない。たぶん、当人は気づいていなかったかもしれないけど、その知見を裏付けうる事実の提示があった。もちろん、時系列を考えればそれを知った上での推論だったのかもしれない。それはともかくとして、そういう事実からの追認を見た時に、たとえその事実が示唆止まりで結局その知見は誤認であったとしても、それは知力だと思う。

それでも、僕が一番に大事にしたいのは、そういう知見を導く(ある意味では凡庸な)知性よりは、なんだで理由づけ出来ちゃうそして往々に誤った結論を導く思考の弊害。そしてその弊害を覆しうる一瞬の逡巡、その平凡な感覚を大事にしたい。つまりは自分の舌を信じるという話よりも、半歩手前。むしろそれが本来の意味なのか。自分の感覚を自分で捉えてみせなければならない。

何も哲学論議じゃない。こういう知覚は誰にでもあるはず。これって何か変じゃないか。なにか違わないか。いつもと違う。――こういうのを違和感として堅持するのは難しい。いくらでも辻褄が合うように納得できてしまう知識で上塗りされてしまう。それでも、一瞬で過ぎ去っていった違和が、事後的にやはりそうだったと事実確認が行われ、あーあの感覚は正しかったんだ、と認知される。その認知だって、バイアスと同じ機構での帰結でしかないのではという向きもあるだろう。そこはなんとも言えない。が、自分の体が感じたものを確信し保持するというのは難しい。精々で、その感覚の瞬間を忘れないぐらいか。別のバイアスとして利用できる程度には、欠片として残せておければいい。色々とヘマやってると、そう思う。

まぁヘマするおかげで企図せず二十盲目みたいなことやれてるんだろけど。舌よりお前の方が馬鹿だなと。舌ちゃん賢いなと。こう、自身の舌でさえ自分から疎外されている(と粗雑に言っても起こられないかな?)って感触。

そして味覚である以上、嗜好品の味は国際的にも定義されてる。そういうマッピングへの意識がない話ってのもどうかと思う。それ以前に、店の説明すら参照せずに不味いだ何だとかさ。いやまぁ、ただ適当に買ってるだけだし言われれば、それでいいと思うけれど。

*1:そして何かの拍子に素性が見えてくれば、あーあやっぱりな。と、毎度のインターネット。

*2:まぁこの態度こそがルルのルと言われればrr

*3:むしろ「気にできていない」という隘路こそ打破されるべきだとすら思えばこそ情報が集積されるのが常であろうに、まぁあんまそういう話は集積しない、なぜか。数に限りのある嗜好品である以上利害関係も発生するしな。それでも。いくらなんだってなぁ。