たらちねのパパ

「蒸らしの時に粉が膨らむかどうかと、出来上がったコーヒーの美味さには関係がない」という一般了解は確かにある。が、問題はそうではない。

おそらく感覚としては、「粉が膨らんだ方が美味しく淹れ易い」という理解*1が、スペシャルティを基準にした場合は正しいのではないだろうか。もちろんこれは、膨らまないと美味しく淹れられないような普通の素人基準の平凡な感覚としてだ。他方で、先の一般了解とおそらくは併存する同様な平凡な感覚として「粉が膨らみ過ぎると上手に淹れられない」という経験もあるはずだ。

ここが少し錯綜する。粉が膨らみすぎるのだから、それに逆らうように、そこを補うように、ゆっくりと少量ずつドリップしていけばいいとなるのか。素朴な疑問として、勢い良く膨らんでいっても保水力が弱いということもあるんじゃないか?それはともかく少量ずつ落とせたとしても時間設定はどうなるのか?前半はゆっくりで後半は普段以上に加速させれば、たとえば水量を増やし水位を上げる、美味しく淹れられるのか。だがこの場合、水圧の影響はどうも雑味か何かの増加に相関しているかのような感覚も得られているはずだ。更に問題になるのは、これらをすべてクリアしても、長時間の抽出に耐えられない豆というものが存在している。基本的には抽出に耐える豆こそがスペシャルティとなる。

また別の問題として、「大量の粉に比して少量の湯を使うドリップ」という工夫は可能なのか?単純な調整法としては常識的だし、普通にありえる。問題は、そういった可能性ではなく、「プロが適正と判断するようなバランスを崩さずに、その上で調整できるのか?」であり、「そもそも調整なんて可能なのか?」という話なのである。

おそらくここは、語ることが難しい。なぜなら、まずは経日変化で香味が変わる。そしてまた現実的な保存法として、冷凍がある以上、その影響も排除できない。これらを考慮した上で上手に捨象し妥当な話にするなんて、相当の経験がないと無理である。

ただ、プロの話から考えるに、「調整ぐらいならそもそも可能である」ようだ。より精確に言えば、「調整して尚、プランBとしての適正値も存在してしまってる」ように焙煎されている、というよりは「適正な焙煎が行われていれば適正値は複数出来てしまう」ぐらいが正しいのだろうか。

ただ問題は、やはり、どれだけ複数の適正値があるにせよ、やはり焙煎の目的に最も合致している適正さは存在してるよう思う。目的から外れている適正値だと、やはりどこか他のコーヒーに似てしまう部分があり、ということは、その似ている先の抽出も、どこか外れてしまっていたのではないか。

この適性値は各種焙煎の段階だけではなく、香味から考えられている部分もあるようだ。


面倒になってきた。そのうち書き足すかも。

*1:これは所謂、「浅煎り入れるのが難しい」問題の延長というか、少し話が変わるのだが、「浅煎り即ち少量の粉でのドリップが難しい」というよりは、「深煎り即ち多量の粉でのドリップが容易」なのだ。もちろん、この容易さは少し嘘で、おそらくは「多少の問題なら覆い隠されてしまう」という説明が、現実に即しているかもしれない。

コーヒーにおけるコクの要件ってなんなんですか?

「コク」なんて概念は、必要に迫られない限り、古典的なボディと言えば事足りてしまうはず。

そして迫られたとしても、現実ではボディにおける複雑さとしてまずは現れるようだから、ボディに還元しきれない次のステップとしてのコク……というものは、実際には遭遇しないただの可能性に格下げされる。

もちろん、可能性でしかないものを現前させるのがプロですけど、これはまた別の話。

実際の商品説明ではコクという言い方もされるけれど、まずは使用が躊躇われている。これが、専門家一同に大前提とされている感覚に思える。さしたる確証があるわけではないけれど、そういう言葉遣いをしているよう見える。たとえば、通販の個別の商品説明でよりもブログやフェイスブックで、コクという単語は使われがちかもしれない。

日常語だと、コクは料理の概念になるはずだ。たとえばカレーとか肉じゃがとか。これらの奥深さというか、味の多さだけ抜き出せば、それはやはりボディの複雑さ、ニュアンスやノートなどの単語へ形容詞を付けてバリエーションとして、言いたくなるはずのものだと思う。現状ではそう捉えている。

だから自分の中では、コクなんて言うしかないものがあるとすれば、それは深煎りの言い表し難い美味さであり、その名状しがたさ、それにだけ使えば事足りてると思っている。

もちろん、これは濃度とは無関係とするべきかもしれないが、ここでは既に深煎りを前提にしてしまっているから濃度は付随する。となれば無関係とは言えないのだろう。とすれば畢竟、浅煎りらしいコクみたいなものは別個に説明する必要がある。

ということであるならば、浅煎りらしい名状しがたさもあるのではないか?これはただのアブダクション。これもあるはずだ。具体的にはブルーマウンテンの方向になる。たぶん、500円のブレンドの美味さの方向。品種としてはパカマラに代表させてる。*1

マンデリンの明るさやシルキーさからも少し異なる、ボディ感もスペシャルティ系よりも軽妙。意外と、少ない粉で2分ぐらいで済ますと、普通のスペシャルティなハイローストらしいボディの濃さに近づく気もする。*2

適正な濃さにすれば、甘さにも特徴が出るはずで、これが適正濃度の指標になるはず。おそらくは酸味と甘みに苦味の香りが乗って、そういう差になってる。

この風味に味があるタイプはそれなりにあるが、苦味の香りが他の質感に乗るってのはあんまないのだろうと思うので、この挙動そのものまたは先のシルキーさの亜種とその基調になる旧来の酸の香りの出方が上質という一言で表されてもいるはず。

ただ、おそらくは、このシルキーさの亜種でも、上質の本領までは到達できていないはず。かと言って、もちろんではあるけど、マンデリンらしい(と言っては現在の認識からでは語弊があんのかな?)シルキーさがその本領の一端とされているわけでもないはず。*3

なので、やっぱり酸の先にあるのはティピカの香味で間違っていないはず。

*1:ベタな酸の香りがカップから立ち昇ってくる500円くらいのコーヒーっぽいスペシャルティってないのかなと、なんとなく思い続けて数ヶ月後に遭遇したから驚いた。やっぱりあるんだ。オーナーも探してるんだ、と。

*2:粉の量で押し切る少量ドリップは、現に存在するコーヒーから鑑みればおそらくありえない。不味くはないだろうけど、適正になりえない。そういう感覚が現時点ではある。まぁ歪ましまくった先にブレイクスルーがあるかもしれんけど。というか、量や粗さで調節なんてできないはずとさえ思ってる。だからこそ焙煎が問われる。飲む側からすれば、焙煎に合わせなければならない。循環してる?そう、それでいい。

*3:でもきっと、オーナーのその原体験というか、やっぱり錯覚だったって蓋然性が高そう。もちろん、本人もそれは知ってるし、なんだってこういう体験はワインであるはずだしね、それでも、求める方向としては圧倒的に面白い。そういうスタンスが、普通にオーソドックスで、いいな、面白いなこの店。

専門店の形而上学的研究プログラム

たとえば、マスカテル。

これだと確信できるマスカテルが買えなかった場合、農園を変えると良いと思う。店の人に聞けばいい。ただ、ブドウよりも、他の果実の香りの方が見つけるのは簡単。そして人気。というか、これらの探し方も、結局は農園探しに収束する。単純な話。*1

個人的な理解では、一番マスカットに近い質感は、マスカテルとは呼ばれてないって感触がある。香りだけでなく、パンジェンシーやボディ、そういう質感の条件が揃ってこそマスカテルになる。ただ、古典的なマスカテル以外も、色々とあるようで現状はもっと多様なんじゃないかな?

マスカテルの語源と通時的な語感の。

紅茶に限った話ではないが、定性的な正しさで全てを説明してしまおうとする人がいる。その中にはやや擦り切られつつもめげずに屈託なく趣味の人をしている人も稀にいる。が、大体は面倒くさい人で、そういう面倒くささに食ってかかれる程度には聡いが鬱屈してる人がまた別に出てきて場が萎えたりなど。姉さん、嗜好品は魔界です。

商品の事実として、マスカテルとムスクは別物かもしれない。語源や遺伝からの話は、ひとまずは無視していいと思う。正しい知識なのだろうけど、購入の指針としては役立たない。というか、その説が正しいのなら、どうしてその説明から外れる商品があるのか。そういう実際の市場を観察してない人の話はどうでもいい。どうせ元から何も考えてない。(もちろんそれらが陰に前提とされてる伝統は無視できんだろけど、とりあえず伝統からの進展や派生の話もしてくれ。)

実際の商品オリエンティッドでことを進めても、もちろん農園ごとで表記ルールが違うから、アブダクションをどうしても経由するしかない。それゆえに素人理解の限界もあるのだけど、私的な実感としては、フローラルとフラワリーとの距離より少し短い程度の差が両者にはあるんじゃないか。

マスカテルとマスカット(果実味)との差の方が、フローラルとフラワリーの差に近しいかもしれない。この感覚の方が、上の距離感よりは自信ある。

ただ、方法としては、マスカテルとムスクの差から理解するのはどうも難しそうなので、ブドウらしさは2次的な要素としてあまり気にぜず、マスカテルと言われるものに付随する二種類目のフレーバーや質感および香味の複雑さを一つ一つ追っていくのが気楽だと思う。

一番分かりやすく汎くあるブドウっぽさは、茶葉に残る香り。これはアフターテイストにもよく出てくるはず。(この2つは微妙に別物かもしれない。)

これも広義でマスカテルなんだろうけど、ここが少し曖昧。香りとしては貴腐葡萄に近い???でもレーズンの香りは別にある。湯切りをせずに2煎目を入れると、出涸らしみたいな味が出てくるから、何かの参考になるかも。

マスカテルの全体像は、どっちかというと、商売上マスカテルと呼びたいインセンティブが向こうにはあり、その結果、名詞としてだけではなく形容詞としても、マスカテルという単語が使われてるようだ――というのが、一番使いやすい近似的な像に思う。もちろん、このことは、マスカテルと呼べるための確固とした専門知の不在を意味はしない。

Wheel of Everything?

また、フルーティと言う場合や、果実のフレッシュ感は、嗜好品の説明としての「明るさ」がどうもそのベースとして存在してて、これはマスカテルの本体ではないはず。

明るさは、深煎りコーヒーの酸の明るさ、柑橘の果汁の明るさ、若いワインの明るさ、こういうのからインスピレーションを得るのが楽だと思う。ファンタオレンジの胡散臭い明るさや、オランジーナの炭酸の明るさも参考になるかも?

王林の香りの出方は、マスカテルに構造的には近いのかも?マスクメロンは難しいなぁ。熟成、芳醇、豊満、瑞々しさの辺りをどうするか?この辺は、どうしてもカタカナでの説明になる印象。あと、メロンの質感は別にある。基準は外国の品種っぽい。あんま美味しいメロンではないが、これはこれで良い部分もある。

プロも、相対的にどこがどう違うからこうなんですよ、というような商品説明はあまりしないから、なんつーか、向こうから提示された茶から文脈を埋めて感得するしかない。

素人でも、農園単位で話をする人の感覚なら、きっと納得はできる。ただ、それを専門的な位置づけから見直した時に、どこに位置するのか不明だったり、どうしてそういう感想に誰もがなってしまうのか、などの問題は、自分で努めて詰めるしかない。

本来的には、マスカテルの定義の構造化というか抽象化する目的は、コンセプトを拡張して新しいダージリンを作るための指針に思えるから、この成果は農園ごとに色々とある。また、茶の製法技術なんて分かりきっているのだから、考えるまでもなくに派生する各種ダージリンがあるだけと言ったほうが事実に近いかも知れない。

複数の店の説明を参考にする場合も、単語の異同にルールは存在しないとまずは想定して、店ごとでの力点の違いが分かれば理想的だと思う。でも、どこでも説明は同じ単語を使う羽目になっている感じはするから、もっと大雑把に繋げちゃても問題ないかもな。

ここは実は、店員個人の説明がブログやフェイスブック等で追えると、店の公式説明とどこかずれるはずで、参考になる。むしろズレなかった場合、ちょっと問題があることがある。責任者がワンマンタイプだと、そういうこともたまに?それでも次回では必ず補正してくるからプロは凄いなとも思う。

というか、ここまで定義を広げると、ローズもマスカテルの射程圏内になってしまうはずで、それはそれで正しいマスカテル理解だとも思うのだけど、そうなった場合、特殊な名前の方面こそがこのアプローチの極値の1つであるはず。

で、そうなるとブドウらしさは、質感の1つとして構造化され、古典的なマスカテルからは乖離しちゃうのでは?と思ったりも。

ちなみに、ローズは、大吟醸やアロマのフレグランスに、近いのがある。あと、茶葉に残る香りは、アップル系に変化できるっぽく、もちろんこれもマスカテルに付随するし、変化するまでもなく元からそれが売りだったりもする。

基本、フレーバーティーは、ダージリンのコピーだと思う。どれも本物が実在する。

*1:のはずなんだけど、流通を見ない通気取って口煩いのが広汎に量産される嗜好品界の不思議。ちゃんと流通を見れば、コーヒーでも紅茶でも、一万もかけずにそこそこは分かれると思うけどな。二万かければもう少し詳しく。ダージリンの場合、累計で三万かけても網羅性が得られないかもしれない買い方はあるけど、それだって、そこまで分かれば、あとは自分で考えて穴を埋めてけよって話だしなぁ。ワインは、一万超ぐらいは早めに飲んでみたほうが理解が捗るかもしれない。

ホールの香辛料

エスビー S&B

 エルブドプロバンス

南仏でよく使われる数種類のハーブをバランスよくブレンドした独特のミックスハーブです。魚介のスープ、マリネ、香草焼きなどの料理にお使い下さい。片手でポンと開けられる、便利で簡単なワンタッチ式のキャップを使用しています。
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•品番:09214 •内容量:7g
•賞味期間:24ヶ月(開封前) •原材料:タイム、セージ、フェンネル、ローレル、ローズマリー

FAUCHON

 エルブドプロバンス

タイム、セージ、ローズマリーなどをミックスした南仏独特のミックスハーブです。魚介類の料理によく合います。ムニエル、魚介のスープ、マリネ、香草焼きなどの料理にどうぞ。
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•品番:11449 •内容量:14g
•賞味期間:24ヶ月(開封前) •原材料:タイム、セージ、フェンネル、ローレル、ローズマリー

マスコットだと

エルブ・ド・プロバンス

特徴
バジル・オレガノローズマリー等をブレンドしたオリジナルハーブミックス。南仏の煮込み料理や魚のマリネ等に。

【原材料名】
ローレル、ローズマリー、セイボリー、オレガノ、バジル、マジョラム、フェンネル、パセリ、タイム
香り付と臭み消し

あれ、ローレルってブーケガルニじゃないか?


ブーケガルニ

特徴
煮込み料理用にブレンドしたハーブを使いやすいように袋に入れました。
【原材料名】
ローレル、ローズマリー、サボリ、オレガノ、バジル、マジョラム、パセリ、フェンネル、タイム

こっちは臭み消し用途らしいが。

同イタリアンハーブミックス

オレガノ、バジル、タイム等をブレンドした爽やかな香味のハーブミックス。肉や魚介類のソテー、マリネ等に
【原材料名】
オレガノ、マジョラム、セージ、タイム、バジル、ローズマリー

ローズマリーがソテーでは曲者でなぁ。

GABAN

香草焼きにはギャバンのイタリアンハーブミックスがいい

オレガノ タイム スイートバジル パセリ

と言っても、まぁなんか安っぽい味だよねーとも言える。

ちな見かけることはまずないけどエルブドプロバンスもある

セージ タイム フェンネル ローズマリー

大津屋はうーんと。

昨年度の割引ダージリンはお買い得か?

状況設定としては、2013年のダージリンファーストフラッシュとセカンドフラッシュ、これらは日本の店では年末の福袋に含まれる。が、この時点で海外では2012年度のSF、下手すれば2011年度のFFが割引価格で売られている。

結論として、半額とかになってるなら、SFは昨年度でも行けるんじゃないかと思う。どうせ余ってるのはサンプルサイズ程度だろし。

そのうち書き足す。

マスカテルノートに別の香味が付随するデュアルタイプ(参照)のマスカテルだと、マスカテル以外の香りは弱くなるのかなぁ?温度が一定の値よりも下がってくると感じられにくくなるのか、茶葉のカスから抽出が進むせいなのか、それとも上澄みの方が(濃度が下がるからか?)フレーバーは感じられやすいのか。

よく言われる日数経過でマスカテルフレーバーが強まるって話、そういうこともあるっぽいんだけど、これってやっぱり吸湿か酸化による劣化か何かの副次効果か、または香り以外の触感系も含めた他の質感が弱体化して相対的に強まってるのか。そのへんもよくわからん。

一抹の違和:自分の舌と合理化

往々にして、飲んだ瞬間に得られる違和は正しい。何も自分の感覚が優れているからではなく―それは極めてオーソドックスでしかありえないはず―つまりは誰にでも分かってしまう違和程度でも十二分に正しくあれてしまう。こういう体験は、常識的な範疇でしかないんだけど、妙に五月蝿い奴は、おそらくは自分の感覚その他を交換可能な程度のものとしてもある程度は扱えるはずだとは考えていないんだろう。

たとえば「AとBとでどちらが良いか」という話になった時、常識程度には敏い煩方は巧妙に論理の穴を付いてくる――つまりは、一般論から外れる例外が存在している、と突いてくる。要は、たしかにAとBではAの方が優れてはいるだろうが、優れたBも存在している、もちろんそれ以上に特に優れたAが至上であるのは云々……、と。で、あんた何段後退する気なんですか。もちろん事実の指摘としての価値はその言説にはあるだろうけど、それって「詳しい俺」が敢えて殊更に言うべきことなのか?その発言によって何か新しい情報が追加されたんだろうか。むしろ誰にでも―その分野について完全に無知な素人でも―同様のことが出任せでも言えてしまうことについては何も思わないんだろうか。結局は、あんたより俺の方が詳しいし分かってると言ってるだけなんじゃないか。

俺の方が詳しいと思っているのなら、より詳しく話を修正すればいいだけなのに。論理上の可能性や一般論なんか誰にでも想定できるのだから、ではその想定は正当なのか。より正確な知識を基により妥当な推論はないのか。その素人然とした着想を洗練させた別の方法が俺には分かる。――という話にもならない。その話は尤もだが、事実上、それは偽問題であり実は全く問題にはならないんだ、というある程度知っていれば誰もが知っている話題の提示にもならない。これらのような閉じた志向性は馬鹿馬鹿しいと思う。知識なんてなくたって美味しいものを美味しいと言ってもらいたい。美味しいはずなのに美味しいと思えなかったら何かが間違っているのではないかと指摘すればいい。そしてそれでも不味かったら、それでいい。

そりゃ嗜好品は金がかかる。金を出した奴が一番詳しい。じゃあ自分はいくら出したか。そこで差が出る。必然、自分より詳しい人間が、売る側だけでなく買う側にすらいる。そんなの当たり前なのに。本当に優劣を決めたいのなら、店単位でも商品単位でも農園単位でも区画単位でも賞単位でも国単位でもステーション単位でも、何だっていいのに、絶対にそれは言わない。具体的には言わない。具体的に言ってみた時に何が出るかと皆にある程度予想されてしまっていても、それを覆してやろうと気炎を上げ言ってみる、なんとことは、まずない。*1

別にそれはそれでいい。論理を盾にしようが、他にもメタった時点で無敵になってしまうことに明らかに寄りかかって知的な懐疑派気取りの爺でもなんでもいい、その懐疑自体は至極真っ当なスタンスでしかないし、だからこそだろ。その動機がくだらなくても、なんでもいい。

にも関わらず、その話に乗る人も少ない。そっちは更に馬鹿馬鹿しい。ルサンチマン阿呆がいて、ちょっとは世間並みに賢いだけの別の馬鹿がいて、深刻すぎて興が冷めるような残酷が別に湧き始め、困惑してる自認良識派には公正さの欠片もない、そんなとこに人が集まるわけない。楽しさを分ち合おうとも、嗜好品業界の知的構築物に挑もうとも、成果物として話を磨き上げようともしていないのだから。*2

そしてその懐疑、時系列に未確定が残るにせよ、事実問題として解答が既に示唆されてる。これは1年ぐらいで気づける。それを指摘する奴もいなかった。懐疑してる本人すらも、その後になっても気づけてない。つまりは懐疑できてしまってるだけで、正規ルートで思考しているわけではないのだろうから当たり前でしかないとも言えよう。そもそもほんとうに気にしてたんだろうか。*3

自分の舌が特別に秀でていると思える根拠を見出したことはないけれど、その精度に差があり実質的な意味も全く異なるかもしれないし最後の最後で方向性の先に見えた二択で選ぶものが違うかもしれないけれど、それでも自分と同じような結論に至るような人と自分には思えるような人の知見は、おそらくは圧倒的に正しい。と理解できたのは収穫かな。

むしろ本来は、これくらい常識的な前提としておけよという程度のものでしかない。たぶん、当人は気づいていなかったかもしれないけど、その知見を裏付けうる事実の提示があった。もちろん、時系列を考えればそれを知った上での推論だったのかもしれない。それはともかくとして、そういう事実からの追認を見た時に、たとえその事実が示唆止まりで結局その知見は誤認であったとしても、それは知力だと思う。

それでも、僕が一番に大事にしたいのは、そういう知見を導く(ある意味では凡庸な)知性よりは、なんだで理由づけ出来ちゃうそして往々に誤った結論を導く思考の弊害。そしてその弊害を覆しうる一瞬の逡巡、その平凡な感覚を大事にしたい。つまりは自分の舌を信じるという話よりも、半歩手前。むしろそれが本来の意味なのか。自分の感覚を自分で捉えてみせなければならない。

何も哲学論議じゃない。こういう知覚は誰にでもあるはず。これって何か変じゃないか。なにか違わないか。いつもと違う。――こういうのを違和感として堅持するのは難しい。いくらでも辻褄が合うように納得できてしまう知識で上塗りされてしまう。それでも、一瞬で過ぎ去っていった違和が、事後的にやはりそうだったと事実確認が行われ、あーあの感覚は正しかったんだ、と認知される。その認知だって、バイアスと同じ機構での帰結でしかないのではという向きもあるだろう。そこはなんとも言えない。が、自分の体が感じたものを確信し保持するというのは難しい。精々で、その感覚の瞬間を忘れないぐらいか。別のバイアスとして利用できる程度には、欠片として残せておければいい。色々とヘマやってると、そう思う。

まぁヘマするおかげで企図せず二十盲目みたいなことやれてるんだろけど。舌よりお前の方が馬鹿だなと。舌ちゃん賢いなと。こう、自身の舌でさえ自分から疎外されている(と粗雑に言っても起こられないかな?)って感触。

そして味覚である以上、嗜好品の味は国際的にも定義されてる。そういうマッピングへの意識がない話ってのもどうかと思う。それ以前に、店の説明すら参照せずに不味いだ何だとかさ。いやまぁ、ただ適当に買ってるだけだし言われれば、それでいいと思うけれど。

*1:そして何かの拍子に素性が見えてくれば、あーあやっぱりな。と、毎度のインターネット。

*2:まぁこの態度こそがルルのルと言われればrr

*3:むしろ「気にできていない」という隘路こそ打破されるべきだとすら思えばこそ情報が集積されるのが常であろうに、まぁあんまそういう話は集積しない、なぜか。数に限りのある嗜好品である以上利害関係も発生するしな。それでも。いくらなんだってなぁ。

「魔性の龍を殺す」

嘘らしく現れる真とは即ち嘘であり、真らしく表現された嘘とは即ち真である。

予め分かってはいないのだから、表現されたものしかない、龍はいない。前段は偽ではなく嘘、後段は嘘か真かの真偽。と言ってもいいのかもしれない。もちろん後段で表現される内容自体が、誰かから観測されそうであるもとのして評価されてしまう―そんな殺し損ねた龍の話―をしているわけでもないんだろうとも思う。


ここは基本、飲み物の話ってことで、主観的なものである味覚体験は伝達不能だと臆断する毎度の被害者気取りの阿呆とか。往々にして、事実確認には手抜きばっかで結論先取のくせに理屈付けまで杜撰。大二病的な主観客観厨ですらあれてない。そもそもの臆断自体がトートロジーなのだから当たり前か。*1

主観的な表現そのものは十分に伝達力を持つ、間主観だ価値自由だ言わずとも、伝わったものが各々で実は異なっていたとしても*2。異なっていたところで異なれるバリエーションなんてたかがしれているという話でもあろうし*3。異なっていようが先ずは話を進める上で問題がなければ、終わってみればその差異は些細なもので、いや甚大なものであったとしても、もう問題にならないような話になっているかもしれない。

なんというか。対話の行き着く先のイメージがないんだろうか。書いていたら気がついた。互いに話していたら気がついた。そういうことは普通にあるはずなんだけどな。愚者のエンドロールか。

*1:ってかどう見てもルサンチマン。しかもその不合理に従ったとこで得られる実利すらない始末。挙句に具体的な対象が存在してない。徹底されたルサンチマンがいかに手当たり次第なのか、その可能性を体現してる。その上に一緒に語らえれる内容がやたらに時事的でしかもそれさえもいつの話だよだったり、意味もなく古いジャーゴンだったり。これがどういうことか、勘弁してほしい。

*2:まぁこういう話になった時点で、「姿は似せがたく、意は似せやすし」とは話がもう異なっているんだろう。

*3:ここも往々にどうでもいいような定義論争にする奴がいて辟易する。定義が両者でズレているのならそのズレた2つの場合の両方で適当に話を同時進行させればいいだけなのに。何も100も200もパターンがあるわけでもないのにさ。